ココロに澄んだ月を。

40代、晩産主婦。幼い頃からメンタル病みつつも、生きてきた歩みと今とこれからの事を綴ります。

場面緘黙症、小学生の頃、④。

小学校高学年、きつくなって来た・・・。

5年生にもなると、女子はグループを作り仲の良い子同士で遊ぶようになっていた。

私は3、4年生の時にも同じクラスだった、わりと仲の良かった子と同じクラスになった。

その子と一緒に居る事が多かったように思う。

そのうちに、いじめと言うほどでは無いけれど、クゥオーターで少し色が白く、髪が茶色っぽいその子がからかわれるようになった。

私とその子は喋ったりもしないが、その子は気にする風もなく、下校時に一緒に笛を吹きながら帰ったり、お互いの家に遊びに行ったりした。

その子だけが喋っていて、私はうなずいたり、首を振ったりして答えていた。

少しは、言葉を発して答えたりもしたと思う。

 

そのうち私も、女子たちに『暗い、根暗』と言われるようになった。

服装もグレートか紺とか、そういう色の服を母が好んで私に着せていた。

『似合うから』

という事だったが・・・。

私はいつもショートカットで、小柄で男の子に間違われるような時もあるくらい・・・ズボンばかり履いていたし・・・。

でも母にお願いして、黄色とかピンクとか、明るい色の服を買ってもらった。

 

喋れなくても、周りの子が言う事は気になるのだ。

その時々の教室の空気とかもわかるし、別に自分の世界に入っているわけでは無い。

 

20分の休みとか、昼休みとか・・・

一人で校内や校庭をブラブラしたり、本を読んだり、そう言う過ごし方も苦痛になっていたと思う。

他の女の子達が仲良くお喋りをしたり、手紙や交換日記などしているのが羨ましくもあった。

 

近所の幼馴染とも、大勢で遊ぶ事もなくなって、一つ下のRちゃんと言う子とばかり、私は遊ぶようになっていた。

学校から帰ってからも、日曜日もほとんどRちゃんと遊んでいた。

Rちゃんもあまり学校の子達とはうまくやれていないようで、特に仲の良い子もいなかった。

二人で色んな遊びを考えて、長い時間を一緒に過ごした。

クラスの子達とは違って、私も普通に話せたのだ。

だが、Rちゃんのお母さんやお父さんとは喋れない。

何か聞かれたら答えるだけ。

 

ああ、めんどくさいな私・・・と思うのだか、どうしてもそうなってしまう。

・・・それが“場面緘黙症”・・・