ココロに澄んだ月を。

40代、晩産主婦。幼い頃からメンタル病みつつも、生きてきた歩みと今とこれからの事を綴ります。

場面緘黙症、小学生の頃、⑤。

6年生になると私の友人は幼馴染みの1才下のRちゃん以外は特にいなかった。

私は本や、漫画を描いたり、文章を書くのが好きな子になっていた。

学校の休み時間や、隙間時間には図書館から借りた本を読んでいた。

下校時に歩きながら本を読むような事もあった。

学校でも作文だけは褒められたので、文章を書くことは

自分でも得意なことなんだろう、と思っていた。

 

Rちゃんとは一緒に漫画を描いたり、交換日記をしたり。

家もすぐ近くなので、毎日遊んでいた。

習い事も同じものをしていたりして。

Rちゃんとは家族と同じように自然に話せたし。

二人で作った、色んな遊びがあった。

時間はたくさんあり、自由で持て余すくらいの日々だった。

 

・・・ただ私は・・・

密かに、中学生になったら喋れるようになるのでは無いか?

・・・なんて思っていた、願っていた。

同じ小学校から私の通う中学に行く子は

半分~三分の一、位だったように思う。

 

『環境が変われば、自分も変われる』

そんな希望もあった。

今までは私が『喋れない』って事を知っている子達と過ごしていたけれど

それを知らない子達と出会えば、喋れるんじゃないか・・・

淡い期待。

 

だけど、『場面緘黙症』・・・

そんな甘いもんじゃないのだ。

その事を私は12歳で知る由もなかった。

 

中学の制服を身にまとえば、何か変われる。

周りの生徒も、先生も何もかも新しい。

きっと、変われる。

今までは私が『喋れない』って事を知ってる子達に囲まれていた。

喋る機会を逸してしまっていた。

・・・だけど・・・

新しい環境・・・

新しい『場面』でなら、普通に話せるのではないか?

12歳の私は、自分が『場面緘黙』であることなんて

わかってなかったし、単純に

『環境が変われば、自分も変われる』

そう思ってたのだ。

 

・・・現実はそんなに甘くない。

 

卒業を控え、クラスの女の子達は

『サイン帳』を回し始める。

私にも『書いて』と何人からも来る。

・・・でもそれは最後の方で

すでに書いた子達のものを見ると

『嫌いな人』の欄に

『暗い、〇〇さん』・・・って私の名前がある。

それを知りながら、親しくもないクラスメイトに書く

『サイン帳』は苦痛でしかなかった。

私に書くように頼んだ子は、クラスの女子全員に書いて欲しいから頼んだだけ。

分かっているから、腹立たしいけれど仕方なしに書く。

 

卒業式。

母は仕事で来なかった。

私も覚えてないくらい適当に終えた気がする。

特に担任の先生の思い入れもなかった。

ただ、その先生は母に面談の時に

『作家になるとよい』と言ったそう。

確かに私は、一年生の頃から

作文や日記は評価されていたし

読解力も成績は良かった。

 

しかし、当時の私にとっては

『良いところを伸ばす』よりも

『出来ないことをどうやったら普通に出来るのか?』

・・・が課題であった。

 

両親は仕事が忙しく、教育熱心ではない。

習い事も一緒に見てくれるという事は一切なく

宿題その他、勉強もほとんど見ない。

母の口癖は『学校の事は学校にお任せ』であった。

 

ただ、手伝いはしないと父の拳骨が飛んできた。

買い物や商売で出る洗濯物の類。

両親が仕事をしている間に遊び惚けていると叱れれるので

何をして過ごせばよいのか??

『勉強なのか、ピアノの練習なのか、手伝いなのか??』

どうしたら怒られないのかわからず。

兄もいたので、兄は手伝いか勉強をしていた。

まあ、今となっては『手伝い』をするのが正解だったのだろう。

 

まだ時代は昭和。

自営業である我が家は、子供も労働力であったのだ。