ココロに澄んだ月を。

40代、晩産主婦。幼い頃からメンタル病みつつも、生きてきた歩みと今とこれからの事を綴ります。

場面緘黙症、中学入学。

女子のグループ行動。

中学校に入学した。

市内で一番新しい中学校。

私たちの学年が入学して、3学年揃った、と言うまだ真新しい学校。

 

新しい気持ちで、新しい生徒たちと生まれ変わった様な自分になれる、などと勝手に思っていた。

『環境が変われば、自分も変われる』・・・

 

否。

どこに行っても自分は自分だ。

・・・まあ、そのことを知るには、中学生になった私はまだ幼く、高校生になってもわからずに、高校を卒業してから理解した。

『自分から変わらないと、環境を変えても、変われない』

・・・のだ、と言う事を。

 

中学に入学しても私は相変わらず話すことは出来ないし

新しい環境に余計に委縮してしまう。

 

それでも、新しい環境に緊張しているのは私だけではなく、みんな同じなのだ。

 

別の小学校から来た女の子が、手紙をくれた。

文章でなら語ることが出来る私は、すぐに返事を書いた。

お互いに自己紹介のような事を書いていたと思う。

 

さて、お弁当を一緒に食べる時など、グループで食べることになった。

小学校の時より、自主的に動かねばならず、席の近い人で男女混ざって作るグループでは無く、好きな者同士で一緒に食べる。

『余ったら嫌だなあ・・・』と思っていたので、その手紙をくれた女の子とは、あらかじめ一緒にお弁当を食べる約束をした。

手紙で、だ。

特に学校でその事話した覚えはない。

一方的に話しかけてくれていたと思う。

入学時の最初の時期だけだけれど、私に興味を持って、友達になろうと手紙のやり取りをしてくれた子、という事で彼女には感謝している。

 

とかく、中学生ともなると一人で行動するのは浮いてしまい、みんな周りを意識して、そして自意識過剰で、教室が一層息苦しい場所になっていた。

 

そのうちその女の子は私以外の別の子と仲良くなって、私は特に親しい友人も出来ずに、自分からは喋る事も出来ないまま、中学生活が続いた。

女子のトイレにも一緒に行くようなグループ行動が出来ずに、浮いていたし、そんな自分をどうにも出来ずにいた。

 

 

 

今の自分。

小学生時代のことまで振り返ってみた。

 

今現在の私は、専業主婦で7歳の娘ともうすぐ5歳になる息子がいて、夫と4人で暮らしている。

成人するかしないかの年頃から働き始め、働いて行く中で、少しずつ緘黙を克服して来た。

でも、今も緘黙の後遺症はあり、そして20代後半で鬱を病み、不安定な精神状態の時期があり、30代の半ばまで苦しく、悩み、キツイ生活が続いた。

 

それの全てが『場面緘黙症』であったから、と言うわけでは無いが、私の性格や性質の根本に『場面緘黙』があるのだと言える。

鬱は二次障害のようなものか。

 

母親として、足りない。

今でもコミュニケーションが苦手で、特に複数の人数での会話が苦手だ。

黙って、聞いているだけの人になってしまう。

それは子供時代から、成人する頃までのコミュニケーションスキルが圧倒的に足りないので、仕方ないと言えば仕方ないのだが、子供のための付き合いというものがある。

母親同士の付き合い。

幼稚園であったり、小学校。

 

特に幼稚園はある程度、密である。

特定の仲の良いお母さんがいなくとも、クラス単位での『茶話会』やら『公園遊び』というような行事がある。

強制的に参加するような物では無いが、クラスの役員が企画し、声をかける。

親同士の親睦を深めるために、各学期に一度は『茶話会』があり、ランチをする。

その他、参観日などにランチをすることもある。

仲の良いグループで集まっている人たちもいるが、みんなに声をかけて集まるものもある。

 

・・・私は、子供時代から高校生までずっと、グループ行動と言うものをほとんどしたことが無く、女子の集団にいじめられた経験もあり、いい年をした今であっても、このような集まりは苦手である。

それでも、同じ幼稚園の同じクラスの子供を持つお母さん達からの情報などは、子育ての中で参考になることも多い。

出来るだけ参加するようにし、緊張しながらも会話に付いて行き、子供のためにとその場を乗り切るようにしている。

 

全くの『変わり者』・・・

他のお母さん達と関わらないヒトにもなり切れないのだ。

・・・私は別に人間嫌いだったり、人間関係を煩わしいと思っている人間ではない。

親しい友人を得たいと思うし、寂しがり屋だし、人と接していたいと思う。

そうしたくても、自然に、器用に出来ない。

学校や仕事のように所属しているものがあるわけでは無い分、流動的であり、能動的にならなければ孤立してしまう。

私にとっては居辛く・・・

そう、居場所を作ることが出来ないような世界なのだ。

 

母親なら、それ位、難なくこなせよ。。。

自分に自分でダメ出ししてしまう。

あなたいくつよ??

20代とかの若いお母さんじゃあるまいし・・・。

 

みっともない、、、

そう、そう言う、その場にふさわしく振舞えない、そんなみっともない自分を、もうずっと自分自身自覚して来た。

仕事と言う、目的、役割があった頃はこなせていたことも、今のように『お母さん』と言う役割、世界でどう人間関係を広げたり、深めたりしていけばよいのか??

途端に動けなくなる。

、、、情けない、今の自分。

 

そんな日々の中で、私はまた、大きく心身の調子を崩しているのだ。

今、通院し、服薬もしている。

不調に悩まされ、日常生活に支障を来たしている。

 

人生ずっと、トンネルの中にいるような気分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場面緘黙症、小学生の頃、⑤。

6年生になると私の友人は幼馴染みの1才下のRちゃん以外は特にいなかった。

私は本や、漫画を描いたり、文章を書くのが好きな子になっていた。

学校の休み時間や、隙間時間には図書館から借りた本を読んでいた。

下校時に歩きながら本を読むような事もあった。

学校でも作文だけは褒められたので、文章を書くことは

自分でも得意なことなんだろう、と思っていた。

 

Rちゃんとは一緒に漫画を描いたり、交換日記をしたり。

家もすぐ近くなので、毎日遊んでいた。

習い事も同じものをしていたりして。

Rちゃんとは家族と同じように自然に話せたし。

二人で作った、色んな遊びがあった。

時間はたくさんあり、自由で持て余すくらいの日々だった。

 

・・・ただ私は・・・

密かに、中学生になったら喋れるようになるのでは無いか?

・・・なんて思っていた、願っていた。

同じ小学校から私の通う中学に行く子は

半分~三分の一、位だったように思う。

 

『環境が変われば、自分も変われる』

そんな希望もあった。

今までは私が『喋れない』って事を知っている子達と過ごしていたけれど

それを知らない子達と出会えば、喋れるんじゃないか・・・

淡い期待。

 

だけど、『場面緘黙症』・・・

そんな甘いもんじゃないのだ。

その事を私は12歳で知る由もなかった。

 

中学の制服を身にまとえば、何か変われる。

周りの生徒も、先生も何もかも新しい。

きっと、変われる。

今までは私が『喋れない』って事を知ってる子達に囲まれていた。

喋る機会を逸してしまっていた。

・・・だけど・・・

新しい環境・・・

新しい『場面』でなら、普通に話せるのではないか?

12歳の私は、自分が『場面緘黙』であることなんて

わかってなかったし、単純に

『環境が変われば、自分も変われる』

そう思ってたのだ。

 

・・・現実はそんなに甘くない。

 

卒業を控え、クラスの女の子達は

『サイン帳』を回し始める。

私にも『書いて』と何人からも来る。

・・・でもそれは最後の方で

すでに書いた子達のものを見ると

『嫌いな人』の欄に

『暗い、〇〇さん』・・・って私の名前がある。

それを知りながら、親しくもないクラスメイトに書く

『サイン帳』は苦痛でしかなかった。

私に書くように頼んだ子は、クラスの女子全員に書いて欲しいから頼んだだけ。

分かっているから、腹立たしいけれど仕方なしに書く。

 

卒業式。

母は仕事で来なかった。

私も覚えてないくらい適当に終えた気がする。

特に担任の先生の思い入れもなかった。

ただ、その先生は母に面談の時に

『作家になるとよい』と言ったそう。

確かに私は、一年生の頃から

作文や日記は評価されていたし

読解力も成績は良かった。

 

しかし、当時の私にとっては

『良いところを伸ばす』よりも

『出来ないことをどうやったら普通に出来るのか?』

・・・が課題であった。

 

両親は仕事が忙しく、教育熱心ではない。

習い事も一緒に見てくれるという事は一切なく

宿題その他、勉強もほとんど見ない。

母の口癖は『学校の事は学校にお任せ』であった。

 

ただ、手伝いはしないと父の拳骨が飛んできた。

買い物や商売で出る洗濯物の類。

両親が仕事をしている間に遊び惚けていると叱れれるので

何をして過ごせばよいのか??

『勉強なのか、ピアノの練習なのか、手伝いなのか??』

どうしたら怒られないのかわからず。

兄もいたので、兄は手伝いか勉強をしていた。

まあ、今となっては『手伝い』をするのが正解だったのだろう。

 

まだ時代は昭和。

自営業である我が家は、子供も労働力であったのだ。

 

 

 

 

 

場面緘黙症、小学生の頃、④。

小学校高学年、きつくなって来た・・・。

5年生にもなると、女子はグループを作り仲の良い子同士で遊ぶようになっていた。

私は3、4年生の時にも同じクラスだった、わりと仲の良かった子と同じクラスになった。

その子と一緒に居る事が多かったように思う。

そのうちに、いじめと言うほどでは無いけれど、クゥオーターで少し色が白く、髪が茶色っぽいその子がからかわれるようになった。

私とその子は喋ったりもしないが、その子は気にする風もなく、下校時に一緒に笛を吹きながら帰ったり、お互いの家に遊びに行ったりした。

その子だけが喋っていて、私はうなずいたり、首を振ったりして答えていた。

少しは、言葉を発して答えたりもしたと思う。

 

そのうち私も、女子たちに『暗い、根暗』と言われるようになった。

服装もグレートか紺とか、そういう色の服を母が好んで私に着せていた。

『似合うから』

という事だったが・・・。

私はいつもショートカットで、小柄で男の子に間違われるような時もあるくらい・・・ズボンばかり履いていたし・・・。

でも母にお願いして、黄色とかピンクとか、明るい色の服を買ってもらった。

 

喋れなくても、周りの子が言う事は気になるのだ。

その時々の教室の空気とかもわかるし、別に自分の世界に入っているわけでは無い。

 

20分の休みとか、昼休みとか・・・

一人で校内や校庭をブラブラしたり、本を読んだり、そう言う過ごし方も苦痛になっていたと思う。

他の女の子達が仲良くお喋りをしたり、手紙や交換日記などしているのが羨ましくもあった。

 

近所の幼馴染とも、大勢で遊ぶ事もなくなって、一つ下のRちゃんと言う子とばかり、私は遊ぶようになっていた。

学校から帰ってからも、日曜日もほとんどRちゃんと遊んでいた。

Rちゃんもあまり学校の子達とはうまくやれていないようで、特に仲の良い子もいなかった。

二人で色んな遊びを考えて、長い時間を一緒に過ごした。

クラスの子達とは違って、私も普通に話せたのだ。

だが、Rちゃんのお母さんやお父さんとは喋れない。

何か聞かれたら答えるだけ。

 

ああ、めんどくさいな私・・・と思うのだか、どうしてもそうなってしまう。

・・・それが“場面緘黙症”・・・

 

場面緘黙症、小学校の頃、③

担任が変わる、友達付き合いも…

 

4年生。

3年生の担任は移動で居なくなり、3年生の頃、音楽を教えてくれていた若い女の先生が担任になった。

クラス替えは2年に一度で3年生の頃と変わらないクラス。

 

大人しく、席替えでも班決めでも余り者の私だったが、3年生の時に親が同業の子と同じクラスになり、優等生の彼は、何故か私の事を気にかけてくれて、自分の班に入れてくれたり、隣の席になると『どうして喋らないの?』と突然真面目に聞いてきたりした。

そんな事聞かれても俯くしかない私だったが、嬉しくもあった。

私の父を通して、彼のお父さんが、よく彼がわたしのことを家で話すと言い、何を話しているのか内容は分からないけど、気にかけてくれて嬉しい、と感じた。

 

同級生とは話せない私も、近所の幼馴染みとは話せるし、中心的な存在で年下の子の面倒もみたし、クリスマス会など開いたり、お姉さん的なこともしていた。

私も小さかった頃は、年上の子達に遊んでもらっていたし。

みんな親は仕事で忙しいから、暗くなるまで公園で遊んだ。

そこに、誰かの親が来ることも無く、子供達だけの世界だった。

ホントに、私が育った世界、大人はみんな忙しかった。

よく働いていた。

 

うちも、家にいるなら手伝いをしなさい、お昼ご飯と夕飯は仕事の都合で何時になるかわからない、そんな土日だったので、家には帰りたくなかった。

夕飯は兄と近所の中華屋さんに食べに行くとか、隣のお蕎麦屋さんの出前とか、とても忙しかった日はお寿司屋さんの出前をとったり。

それはお寿司が好きな母へのご褒美、みたいな感じだった。

私が料理ができるようになるまではそんな感じだった。

兄もよく手伝っていたけれど、料理は出来なかった。

 

習い事は、1年生の途中から、習字…これは近所の子がみんな習っていた。

2年生の途中から、ピアノ。

この2つは高校2年生位までやっていた。

 

学校ではまだ、嫌な感じもなく、向こうから私に好意を持ってくれたら、喋んない私であったが、一緒に帰ったり、放課後を一緒に過ごす子もいた。

 

後は私は本が好きだったから、よく読んだし、仲の良い幼馴染みと遊んだ。

家に帰っても父も母も忙しいし、夕方までは帰りたくないし、帰ってからも忙しいと何だか居辛くて、出来るだけ外にいたかった。

 

この頃の私が楽しいと思う時は、幼馴染みと遊んでいる時。

それでいて、頭痛や胃痛もあった。

寝付きが悪く、寝不足…これは小学校低学年からあり、保育園の頃もお昼寝が出来ない子だった。

 

 

 

 

 

 

 

場面緘黙症、小学生の頃、②

3年生、担任の先生が代わった!

 

3年生、担任が男性の若い先生に代わった。

子供にも分かるくらいの『熱血先生』…

まず、自分は絶対に叩かない…と宣言。

(当時、先生が生徒を叩くのは当たり前の事でした)

宿題は基本出さない。

忘れ物やどうしても宿題になってしまう事を生徒が忘れたら、先生を叩けという。

黒板に書いた事を指す為に使っいる竹竿?で先生を叩けという…

これはただ叱られるよりもキツイ…

 

まだ幼い私もこの先生は破天荒だなぁと思い、しかも保育園や学校でも今まで女性の先生だったので…驚きつつも、わくわくしましたね。

 

そして、その後の学校生活を振り返っても、この先生ほど私に関わってくれた先生は居ません。

皆、私を、喋れないから面倒と思いつつも、特に問題行動も起こさず、不登校でも無い、学校には来るし…って感じで、なんのアプローチもし無かった。

 

これが場面緘黙症を拗らせてしまう根源でもあると思う。

 

彼女、彼らは、家では普通に話せていて、家族には何の問題も無いと思わせてしまう。

そして共感能力はあるので、発達障害とも違い、学校にも行くし、目立つ様な問題は起こさない。

発言を求められて、出来無い、

とか…あるけど地味なんです。

じっと出来ないで歩き回るとか、騒ぐとか無いし、基本、先生に従います。

周りに迷惑かけることを嫌うし、かけてしまうと、自己嫌悪に陥ります。

目立つことを嫌います。

学校も頑張って行きます。

先生が、場面緘黙症の子を無視する事も容易に出来ます。

発言を求めるようなことはしない、いない人のように扱う。

…ってか、その方が楽です。

彼らは文句も言いませんからね。

教師は、親に何かしら言われない限りは、無視する事も出来ます。

 

今や、発達障害の子が認知されて、ブームみたいになってますが、そういう子がたくさんいる中で、場面緘黙症みたいに地味な、余り他の子に迷惑をかけず、目立つ事を嫌い、学校で話すことも出来ない自分を親に知られたく無い…なんて言う…地味過ぎる、親も気がつかないような障害、たくさんの子供たちを抱えている学校の先生に、細やかに見て欲しいなんて…無理だなと思う。

(本来は、見てくれないと困る、それが仕事ではある。)

 

親が気がついて、積極的にアプローチしないと…

だけど、保育園、幼稚園、学校の先生が一番分かるはず。

場面緘黙症は家では話すし、普通の子供なの。

外部の人に指摘してもらい、関わってもらわないとずっと分からないままでいる。

 

1年だけ、楽しかった学校!

 

若い男性の先生は、いつもギターを弾いてみんなで歌ったり、3学期になるともう教科は終わったからと、クラスみんなでゲームをしたりした。

 

フルーツバスケットとか、数読みたいなゲーム、色々先生は考えてくれた。

 

私にもアプローチの仕方は嬉しくは無いけど、他の生徒を使って『どうして喋らないの?』と聞かせる様な行為があった。

 

皆が自然に集まって遊ぶ休み時間に入れない私に、アプローチしてくれて、それは嬉しいけど恥ずかしく、泣いた時もある。

 

この先生は、私にずいぶん親切にしてくれるけど、それに答えられない自分に苦しんだ。

 

また、先生は作文や物語、詩を書かせる事を大事にしていて、私の書いた詩や、物語もみんなの前で読んでくれ褒めてくれた。

 

その先生に教わったのは1年間だけだけど、長い学校生活の中で一番、印象に残り、私に関わってくれた先生だと思う。

 

私は保育園を含め、高校まで…専門学校にも担任は居たけど半年も行ってないし…

その中で、この3年生の時の担任の先生が一番熱心で、私も9歳とかだったけど、熱意が伝わり、印象に残っている先生。

 

その後どうしてるかなと思いを馳せます。

 

同僚の先生と結婚したことで他の学校に移動してしまった。

 

今、何才くらいかな。

 

定年してますな…多分?

 

 

 

 

 

場面緘黙症、小学生の頃、①。

もちろん、小学生になっても、喋れない!

小学生低学年で、日記を通して担任の先生に思いを伝えることが出来た私だけれど、それで万事が叶ったわけでも、無い。

その担任の先生も、席替え、班決めなどでは中心となる子供たちに決めさせ、私のような、誰とも仲良くもなく、自己主張も出来ない子と言うのは・・・

はっきり言って、ジャンケンで負けた子の班に入るという、そんな屈辱の日々だった。

 

最後に班に入れない子をジャンケンで、負けた子が仕方なく班に入れるという・・・

罰ゲーム?

大きくなって、思い返すとそれは罰ゲームのようでもあったし、担任の先生がどの子が誰が余りものか、知る儀式でもあったのかとも思う。

・・・ただ、儀式であったのだとすれば、その後のフォローは必至・・・。

そんなアフターフォローは無かったっす。

私には。

いつも自分は、余りもの。

その意識は一、二年生でずっとあった。

あの担任。

・・・私が三年生になった頃には別の学校に移動していたので、その後どうしているかは知らない。

 

私の両親は、学校で私がどう過ごしているかと言うのも気配りしているような人たちではない。

当時、月曜日には、ハンカチ、チリ紙を持ってきているか、そして爪を切っているか・・・と言うチェックがクラスであった。

私は常に、忘れ物、爪を切っていない、常習犯だった。

私以外にも数人はいた。

 

ただ、当時はお父さんはサラリーマン、お母さんは専業主婦、という家庭がスタンダードであった。

私の両親は学校行事にはまず、出てこれない、という事が基本だったので、運動会ですら、土日にあるから、出ない。

平日の参観日や保護者会も、まず出ない。

仕事の合間を縫って、来れたら来る、という感じ。

学校は徒歩5分のとかからないところにあったので、来れたら来る。

・・・そんな感じ。

 

なので、きちんとした家庭では無い、っていうことは、学校の先生にも伝わっていたとは思う。

 

 私が幼少期を過ごした、1970年代から、1980代、父親が主に生計をたて、母親が専業主婦、という家庭がスタンダードであった思う。

私は所謂、『団塊の世代ジュニア』の世代だ。

(両親は戦前生まれ(戦中かな)なので、団塊世代では無いが、私の生まれた年は、団塊ジュニアと言われる年代)

 

20歳になったころのニュースでは、200万の成人がいたという。

今ではどうですか?

半数を割っているのでは。

 

 

私の同年代の人でも、独身であったり、子供を持たない夫婦が結構いる。

そういう選択ももちろんあるし、自由だ。

国のために、子供を産んで育てるなんて・・・

おかしいです。

人生の選択は自分自身でするもの。

 

20代の頃、バブルは弾けていたけど、まだ、20代半ばで結婚するのが、女性は普通であった。

結婚退職も当たり前の時代。

私は転職経験も多いが、必ずと言っていいほど、面接で『ご結婚の予定は?』と聞かれた。

今、その質問、NGですよね…

 

。。。でも、場面緘黙症で、コミュニケーション能力もない私が、現在、二児の母だという事がおかしいと思う方もいると思うので、その後のことも書いて行きたいと思います。