ココロに澄んだ月を。

40代、晩産主婦。幼い頃からメンタル病みつつも、生きてきた歩みと今とこれからの事を綴ります。

場面緘黙症、小学校の頃、③

担任が変わる、友達付き合いも…

 

4年生。

3年生の担任は移動で居なくなり、3年生の頃、音楽を教えてくれていた若い女の先生が担任になった。

クラス替えは2年に一度で3年生の頃と変わらないクラス。

 

大人しく、席替えでも班決めでも余り者の私だったが、3年生の時に親が同業の子と同じクラスになり、優等生の彼は、何故か私の事を気にかけてくれて、自分の班に入れてくれたり、隣の席になると『どうして喋らないの?』と突然真面目に聞いてきたりした。

そんな事聞かれても俯くしかない私だったが、嬉しくもあった。

私の父を通して、彼のお父さんが、よく彼がわたしのことを家で話すと言い、何を話しているのか内容は分からないけど、気にかけてくれて嬉しい、と感じた。

 

同級生とは話せない私も、近所の幼馴染みとは話せるし、中心的な存在で年下の子の面倒もみたし、クリスマス会など開いたり、お姉さん的なこともしていた。

私も小さかった頃は、年上の子達に遊んでもらっていたし。

みんな親は仕事で忙しいから、暗くなるまで公園で遊んだ。

そこに、誰かの親が来ることも無く、子供達だけの世界だった。

ホントに、私が育った世界、大人はみんな忙しかった。

よく働いていた。

 

うちも、家にいるなら手伝いをしなさい、お昼ご飯と夕飯は仕事の都合で何時になるかわからない、そんな土日だったので、家には帰りたくなかった。

夕飯は兄と近所の中華屋さんに食べに行くとか、隣のお蕎麦屋さんの出前とか、とても忙しかった日はお寿司屋さんの出前をとったり。

それはお寿司が好きな母へのご褒美、みたいな感じだった。

私が料理ができるようになるまではそんな感じだった。

兄もよく手伝っていたけれど、料理は出来なかった。

 

習い事は、1年生の途中から、習字…これは近所の子がみんな習っていた。

2年生の途中から、ピアノ。

この2つは高校2年生位までやっていた。

 

学校ではまだ、嫌な感じもなく、向こうから私に好意を持ってくれたら、喋んない私であったが、一緒に帰ったり、放課後を一緒に過ごす子もいた。

 

後は私は本が好きだったから、よく読んだし、仲の良い幼馴染みと遊んだ。

家に帰っても父も母も忙しいし、夕方までは帰りたくないし、帰ってからも忙しいと何だか居辛くて、出来るだけ外にいたかった。

 

この頃の私が楽しいと思う時は、幼馴染みと遊んでいる時。

それでいて、頭痛や胃痛もあった。

寝付きが悪く、寝不足…これは小学校低学年からあり、保育園の頃もお昼寝が出来ない子だった。