場面緘黙症、小学生の頃、①。
もちろん、小学生になっても、喋れない!
小学生低学年で、日記を通して担任の先生に思いを伝えることが出来た私だけれど、それで万事が叶ったわけでも、無い。
その担任の先生も、席替え、班決めなどでは中心となる子供たちに決めさせ、私のような、誰とも仲良くもなく、自己主張も出来ない子と言うのは・・・
はっきり言って、ジャンケンで負けた子の班に入るという、そんな屈辱の日々だった。
最後に班に入れない子をジャンケンで、負けた子が仕方なく班に入れるという・・・
罰ゲーム?
大きくなって、思い返すとそれは罰ゲームのようでもあったし、担任の先生がどの子が誰が余りものか、知る儀式でもあったのかとも思う。
・・・ただ、儀式であったのだとすれば、その後のフォローは必至・・・。
そんなアフターフォローは無かったっす。
私には。
いつも自分は、余りもの。
その意識は一、二年生でずっとあった。
あの担任。
・・・私が三年生になった頃には別の学校に移動していたので、その後どうしているかは知らない。
私の両親は、学校で私がどう過ごしているかと言うのも気配りしているような人たちではない。
当時、月曜日には、ハンカチ、チリ紙を持ってきているか、そして爪を切っているか・・・と言うチェックがクラスであった。
私は常に、忘れ物、爪を切っていない、常習犯だった。
私以外にも数人はいた。
ただ、当時はお父さんはサラリーマン、お母さんは専業主婦、という家庭がスタンダードであった。
私の両親は学校行事にはまず、出てこれない、という事が基本だったので、運動会ですら、土日にあるから、出ない。
平日の参観日や保護者会も、まず出ない。
仕事の合間を縫って、来れたら来る、という感じ。
学校は徒歩5分のとかからないところにあったので、来れたら来る。
・・・そんな感じ。
なので、きちんとした家庭では無い、っていうことは、学校の先生にも伝わっていたとは思う。
私が幼少期を過ごした、1970年代から、1980代、父親が主に生計をたて、母親が専業主婦、という家庭がスタンダードであった思う。
私は所謂、『団塊の世代ジュニア』の世代だ。
(両親は戦前生まれ(戦中かな)なので、団塊世代では無いが、私の生まれた年は、団塊ジュニアと言われる年代)
20歳になったころのニュースでは、200万の成人がいたという。
今ではどうですか?
半数を割っているのでは。
私の同年代の人でも、独身であったり、子供を持たない夫婦が結構いる。
そういう選択ももちろんあるし、自由だ。
国のために、子供を産んで育てるなんて・・・
おかしいです。
人生の選択は自分自身でするもの。
20代の頃、バブルは弾けていたけど、まだ、20代半ばで結婚するのが、女性は普通であった。
結婚退職も当たり前の時代。
私は転職経験も多いが、必ずと言っていいほど、面接で『ご結婚の予定は?』と聞かれた。
今、その質問、NGですよね…
。。。でも、場面緘黙症で、コミュニケーション能力もない私が、現在、二児の母だという事がおかしいと思う方もいると思うので、その後のことも書いて行きたいと思います。
場面緘黙症と家族。
私の両親は商売をしていて、父だけでなく母も店に出ていた。
母も父と同じ、資格を持ってする仕事で、母は父の手伝いをする、というわけでは無い。
父と同じように仕事をする。
(家事も主に母がするが、店の掃除や家計のことなどは父がしていた)
店と住居が一緒の家。
一階に店と台所、浴室、トイレがあり、二階に六畳の部屋が一つと四畳半の部屋が繋がって二つあった。
六畳の部屋が両親の寝室で、四畳半の部屋二つが私と兄の部屋。
私が中学2年生になるまでは、奥の部屋が兄、手前が私であったが、二つの部屋は繋がっているため、年頃になった私は奥の部屋を希望して、奥の部屋にしてもらった。
こんな家に、家族四人で住んでいるの??と驚く位狭い。
洗面所や脱衣所も無いので、お風呂に入る時は、お風呂の中で着替えをしていた。
歯磨きや洗顔も、お風呂でするか台所のシンクが空いていたらそこでしていた。
両親の仕事は土日が忙しく、月曜が休み。
平日もいつお客さんが来るかもわからないし、来たら小一時間はかかる仕事。
朝の8時半から、夜はお客さんがいなくなるまで店を開けていたので、閉店は一応7時半だが、それ以上になることが多かった。
私も兄も、店に出ることは禁止されていて、用事がある時は、店と台所の間にあるドアをノックして伝える。
玄関は店の出入り口とは別にあった。
何よりも両親が嫌うのが、店に『家庭感』を出してしまうこと。
子どもの声がしたり、うるさいのはダメ、
店に聞こえるような声や音をたてると、父に怒鳴られた。
保育園でも喋ることが出来なかった私は、小学校に入学しても変わらなかった。
小学校の入学式の事は覚えてないが、入学後か前かに『知能テスト』をみんなで受けたことは覚えている。
今はああいうのは無いのかな。
小学校は近隣の幼稚園から来てる子が多く、私は保育園でしかも少し遠いところだったので、知っている子は一人しかいなかった。
その子は男の子で、しかもクラスは別になった。
ただ、その子はなぜか私を慕ってくれて保育園ではいつも、声をかけてきて、二人で遊ぶことが多かった。
彼も、あまり家庭に恵まれていないというか、お父さんが障害を持っていて、お母さんが働いている家だった。
私はいつも学校で緊張していた。
名前を呼ばれたら『はい』と返事をしなければならないのも、保育園では無かったこと。
保育園では返事をすることを強要されなかった。
学校ではそうは行かない。
出欠を取る時、何も言わないわけには行かない。
何とか、返事は出来るようになった。
しかし、学校にいる時間、声を発することがほとんど無いので、下校の時に独り言のように声を出してみると、耳がおかしいのかと思うような違和感があった。
家に帰ってからも、しばらく喋ってないと、自然な感じに戻れない。
自分の声だとしっくりするのに、少し時間がかかるような毎日。
クラスの子からもからかわれる。
私の声が聞きたいと、くすぐってくる子もいる。
『耳が聞こえないの?』と聞いてくる子もいる。
うなずいたり、首を振って答えられないような質問をして来る子もいる。
そのたびに、どうして良いのかわからなくて、戸惑い、途方に暮れる。
どうか、私に興味を持たないで、と思う。
恥ずかしい。
こんな自分が、ただただ、恥ずかしい。
それでいて、自分の想いを、意思を、自然に伝えられない学校での自分に疑問を持ち、みんなと違う異質な自分を意識し、どうしたら良いのかと思い続けていた。
そんな自分の想いを伝える手段が、『文章を書くこと』だった。
一年、二年の担任の先生は同じ先生で、女の先生だった。(当時30前位?)
宿題と言っても、任意で、日記を書いてきたら読んでくれて返事をくれた。
私はそのみんながやらなくてもいい宿題を好んでやった。
先生から返事を貰えるのが嬉しかったし、いつも黙っていて何も言えない自分の唯一の自己表現の場・・・。
学校で、自分が自分を出せない事、何も伝えることが出来ないことを、私は十分にわかっていた。
そしてそれがとても辛いことだったのだ。
だから、その日記の宿題を楽しみにして提出した。
文章でしか、自分を表現出来なかった。
生まれたのは…そして場面緘黙。
私は1970年代、自営業の両親、5歳上の兄のいる家庭に生まれました。
父の両親は私が2歳の頃に相次いで亡くなり、母の実家も遠方と言う事もあり、核家族。
周りも同じ様に自営業(商店)の家が多く、似たような年頃の子供達がいました。
私は3歳から保育園に入園。
その頃から『場面緘黙症』と言う子供の不安障害を発症したと思われます。
…家では普通に話せるのですが、保育園では一言も話せない。
それから、近所の大人とも話せず、たまに会う親戚とも話せませんでした。
何かを聞かれ、答えなくてはならない時は、うなずくか首を横に振る。
声を出して伝える事が出来ない。
…これはとても不便な事なのですが、何故だが心も体もそうなってしまう。
家では普通に話すし、近所の幼馴染みとも普通に話す。
でも家に家族以外の人が遊びに来たりすると、途端に話せない。
…そんな自分の不自由さ、特異さに気づく様になったのは多分4、5歳の頃。
保育園での友達関係だったり、大人に意思を伝えられない事で困る事が多々あり、それでもどうにも出来なくて、泣く時ですら声を出せないのだ。
でも、保育園の先生や両親は『人見知り』と見ていたよう。
いや、保育園の先生は『場面緘黙』の子供を見た事も有るだろうから、分かっていても特に指導や両親に指摘する事をしなかったのかもと思います。
まあ、話さないこと以外は、特に問題無く行動し、大人しい手の掛からない子供、ならば敢えて何もしないでおく、と言った感じだったのではと思う。
…ただ、私は保育園時代だけでは無く、その後も集団生活の中でとても苦労したし、今でも対人関係を構築する事に置いては上手く出来ない事も多いのです。
また、その事や色々、書いて行きたいと思います。