場面緘黙症と家族。
私の両親は商売をしていて、父だけでなく母も店に出ていた。
母も父と同じ、資格を持ってする仕事で、母は父の手伝いをする、というわけでは無い。
父と同じように仕事をする。
(家事も主に母がするが、店の掃除や家計のことなどは父がしていた)
店と住居が一緒の家。
一階に店と台所、浴室、トイレがあり、二階に六畳の部屋が一つと四畳半の部屋が繋がって二つあった。
六畳の部屋が両親の寝室で、四畳半の部屋二つが私と兄の部屋。
私が中学2年生になるまでは、奥の部屋が兄、手前が私であったが、二つの部屋は繋がっているため、年頃になった私は奥の部屋を希望して、奥の部屋にしてもらった。
こんな家に、家族四人で住んでいるの??と驚く位狭い。
洗面所や脱衣所も無いので、お風呂に入る時は、お風呂の中で着替えをしていた。
歯磨きや洗顔も、お風呂でするか台所のシンクが空いていたらそこでしていた。
両親の仕事は土日が忙しく、月曜が休み。
平日もいつお客さんが来るかもわからないし、来たら小一時間はかかる仕事。
朝の8時半から、夜はお客さんがいなくなるまで店を開けていたので、閉店は一応7時半だが、それ以上になることが多かった。
私も兄も、店に出ることは禁止されていて、用事がある時は、店と台所の間にあるドアをノックして伝える。
玄関は店の出入り口とは別にあった。
何よりも両親が嫌うのが、店に『家庭感』を出してしまうこと。
子どもの声がしたり、うるさいのはダメ、
店に聞こえるような声や音をたてると、父に怒鳴られた。
保育園でも喋ることが出来なかった私は、小学校に入学しても変わらなかった。
小学校の入学式の事は覚えてないが、入学後か前かに『知能テスト』をみんなで受けたことは覚えている。
今はああいうのは無いのかな。
小学校は近隣の幼稚園から来てる子が多く、私は保育園でしかも少し遠いところだったので、知っている子は一人しかいなかった。
その子は男の子で、しかもクラスは別になった。
ただ、その子はなぜか私を慕ってくれて保育園ではいつも、声をかけてきて、二人で遊ぶことが多かった。
彼も、あまり家庭に恵まれていないというか、お父さんが障害を持っていて、お母さんが働いている家だった。
私はいつも学校で緊張していた。
名前を呼ばれたら『はい』と返事をしなければならないのも、保育園では無かったこと。
保育園では返事をすることを強要されなかった。
学校ではそうは行かない。
出欠を取る時、何も言わないわけには行かない。
何とか、返事は出来るようになった。
しかし、学校にいる時間、声を発することがほとんど無いので、下校の時に独り言のように声を出してみると、耳がおかしいのかと思うような違和感があった。
家に帰ってからも、しばらく喋ってないと、自然な感じに戻れない。
自分の声だとしっくりするのに、少し時間がかかるような毎日。
クラスの子からもからかわれる。
私の声が聞きたいと、くすぐってくる子もいる。
『耳が聞こえないの?』と聞いてくる子もいる。
うなずいたり、首を振って答えられないような質問をして来る子もいる。
そのたびに、どうして良いのかわからなくて、戸惑い、途方に暮れる。
どうか、私に興味を持たないで、と思う。
恥ずかしい。
こんな自分が、ただただ、恥ずかしい。
それでいて、自分の想いを、意思を、自然に伝えられない学校での自分に疑問を持ち、みんなと違う異質な自分を意識し、どうしたら良いのかと思い続けていた。
そんな自分の想いを伝える手段が、『文章を書くこと』だった。
一年、二年の担任の先生は同じ先生で、女の先生だった。(当時30前位?)
宿題と言っても、任意で、日記を書いてきたら読んでくれて返事をくれた。
私はそのみんながやらなくてもいい宿題を好んでやった。
先生から返事を貰えるのが嬉しかったし、いつも黙っていて何も言えない自分の唯一の自己表現の場・・・。
学校で、自分が自分を出せない事、何も伝えることが出来ないことを、私は十分にわかっていた。
そしてそれがとても辛いことだったのだ。
だから、その日記の宿題を楽しみにして提出した。
文章でしか、自分を表現出来なかった。